超新星爆発と藤原定家 その2
2015年1月28日
安倍泰俊が調べ、藤原定家によって明月記に記された、客星のページ
藤原定家の命により、時の陰陽師、安倍泰俊は、過去における客星出現の事例を洗い出し報告。定家は、それを明月記に記した。そのなかにカニ星雲の元となった超新星爆発が含まれていたのだ。(赤枠)
カニ星雲の元となった客星(超新星爆発)の項
赤枠の文は以下のようになる。
後冷泉院・天喜2年四(五)月中旬(1054年5月20日~29日以後の丑の時、客星觜・参の度に出ず。東方に見わる。天関星に孛す。大きさ歳星の如し。
これを現代文に訳すと、
1054年6月中旬以降の夜中に、超新星がオリオン座(觜・参)の上の東方に見え、おうし座ζ(ゼータ)星のそばで輝く。その明るさは木星(歳星)と同じだった。
オリオン座の北、おうし座の右の角の先のζ星(天関星)のそばに超新星は現れた
明月記によると、天喜2年(西暦1054年)参(オリオン座の三ツ星)の北の觜(オリオン座の頭)のさらに北の、天関星(おうし座の右の角の先)のそばに、客星が現れたとある。そこは、まさにカニ星雲が淡い光を放っている位置である。
つまり、日本の古典「明月記」からカニ星雲の元となった超新星爆発の年代が特定できたというわけだ。
このできごとは後に、中国の宋書天文史・客星の項目にも同じような記述が見つかった。それによると、客星は23日間昼間でも見え、22ヵ月後に見えなくなったと言う。また、北アリゾナで11世紀に使われたとされるアメリカインディアンの廃墟からも、この超新星を描いたとされる壁画が見つかっている。
このように、一見天文学とはかかわりのない文学作品からも、天文学上の貴重な現象が発見されることがしばしばある。つまり昔の人々は、星空に畏敬の念を抱き、天文現象と生活をともにしていたと言うことがよくわかる。
すばる望遠鏡が撮影したカニ星雲