「私だったらできる?」
2024年7月30日
先日、私が抱えている不安を先輩僧侶に聞いていただきました。先輩は間をおいて「実は、30年前死のうと思ったことがあってね。お寺を飛び出し、あてもなく歩いていたら、90代くらいの女性が「和尚さん、まさか死のうと思ってないかね?」と声をかけられてね。不思議と僕はその方の前でただ泣くことしかできなかったのだよ。私の肩を柔らかい手でさすりながら女性は『私は頭が悪いから気の利いた言葉はいえん。仏教のこともわからん。しかしこれだけは伝えさせて!死んだならいかん。辛いけど生きてほしい。』何度も私の顔をみておっしゃった。私は我にかえり『はい』とうなずき、何度もその女性にお礼を言ってお寺へ帰ったんだよ」とおっしゃったのです。
いつも明るく私たち後輩を導いてくれる先輩にも他人には言えない苦しみを抱えて生きておられるのです。
私もそうです。どれだけ仏様の教えをいただいても、いざ自分が悩むとなると教えが通用しないこともあるのです。よく「他人には偉そうなことばかり教えているのに、家族のこととなるとダメじゃないの」とおっしゃる方がいますが、その人の学識がいい加減だというわけでもなければ、その人の身の上相談のアドバイスが間違っているわけでもないのです。他人にアドバイスする知識が身内の説得に通用するかというとむしろ通用しないこともあるのです。他人が悩んでいるときには助言することができます。しかし自分がそういう問題にぶつかったら知識はいざというときには役に立たなくなるのです。
小慈小非(しょうじしょうひ)もなき身にて
有情利益(うじょうりやく)は
おもうまじ。 (親鸞聖人)
「私だったらあの人を説得できるわ」とか「私があの人の立場なら即、身を引くけどな」と意気込んでも、大慈悲の心で自分も相手も変えることはできないのです。
どんな人も迷いの中で生きているのです。
それがわかれば、私も凡夫の身としてそのまま向き合い、あとは大慈悲の阿弥陀さまにおまかせすることしかできないのです。人間は完璧には生きられません。だからこそ仏さまに救われる身として生きることで安心できるのですね。