【第6回】少女漫画家は嫉妬する!そして読者も途方にくれる。 山岸涼子の「日出処の天子」が引き起こした大騒動
2019年11月19日
前回記事:【第5回】山岸凉子の「日出処の天子」が引き起こした大騒動<その1>
まずは、「ライオンキング」に関する雑談から~
いやあ、ディズニーフリークとしては、観ておかなければならないでしょう、「ライオンキング」のリメイク・3DCG版。―つい、実写版と言ってしまいそうになります―この映像を観ていると、本当のライオンに演技させているような錯覚に陥ります。「ライオンキング」といえば、手塚治虫の「ジャングル大帝」との類似疑惑が思い出されます。リメイク版のヒットにより、この騒動が再燃する兆しもあります。
これに限らず、作品の『オリジナル』性の主張は、結構大変なものとなる事例が多いようです。
「ベルバラ」の作者、池田理代子が喧嘩を売ってきたぞ!
さて、話を山岸涼子に戻しましょう。「日出処の天子」が完結してから20年以上も経た2007年に、意外なところから騒動が巻き起こりました。あの「ベルサイユのバラ」で一世を風靡した池田理代子が山岸涼子に喧嘩を売っていたのです。彼女は朝日新聞誌上のインタビューにこう答えています。
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『ある漫画家が、聖徳太子と蘇我毛子との「霊的恋愛」を描いた。「違和感を覚えました」・・・』
引用:2007年5月14日付 朝日新聞・夕刊「ニッポン人脈記」
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うーん、作者名も作品名も書かれていませんが、誰が読んでも、山岸涼子の「日出処の天子」としか考えられません。
池田理代子自身も、1991年から1994年に「正史に忠実に描いた」「テーマを四天王寺から依頼された」とする「聖徳太子」なる作品を描いている。この作品は一部で相当な議論を巻き起こします。端的に言えば「日出処の天子」から多くをパクっているという議論です。前述の発言はこの議論を意識しているものと考えられます。
改めて両作品を読み返すと
今回の原稿を仕上げるに当たり、実際に池田理代子の『聖徳太子』を読み解くのは苦痛でした。どうしても、『日出処の天子』と比較してしまうからです。評価は皆さんにお任せします。ただ、池田理代子の絵柄は、本来、巻き毛クルクルの、優雅な衣装を着た、瞳の大きいキャラクターが特徴なのに、日本古代史の人物を描こうとすれば、どうしても先行する作品に影響されます。ましてや、自ら戦線布告した作品に影響されないわけには行かないのでしょう。
結論を述べます。両作品の類似性については、登場人物のキャラクターや造形、エピソードの展開など多くの指摘があり、「同時代の人物を描く以上、仕方が無いよね~」では許容される範疇を超えると考えざるを得ません。
また、私の知る範囲では、山岸涼子はこの作品に一切言及していない。喧嘩としては、こちらの勝ちだよね。
池田理代子「聖徳太子」を弁護する
『聖徳太子』なる漫画は、「良い子のための作品です」。ただ、これだけ読むなら、別に気にする必要はありません。主人公の苦悩や、時代との相克、様々な要素は十分に魅力的でもあります。
先ほど、『聖徳太子』を読み進めるのは苦痛であったと記述しましたが、一旦、そういった違和感を脇に置くと、それなりに作品を評価する事ができます。一例を挙げると、聖徳太子の妃となる『大姫』(訳語田大王【後の敏達天皇】と額田部女王【後の推古天皇】の1番目の皇女)の描写には、山岸涼子版の『大姫』とは異なる魅力があります。
そもそも、歴史を漫画化するにあたっては、動かしがたい史実(厩戸王子にまつわる様々な伝承や神話、推古天皇の摂政として政治的実権を握り遣隋使の派遣を実現した事実(伝承?)、その後、厩戸の一族は惨殺されてしまう史実等は動かしがたい物語の枠組みとなります。こうした中で、自身の『聖徳太子像』を語ろうとすれば類似性が生じるのは、当然です。しかし、残念ながら「山岸涼子」とは異なる創作の提示には至っていないのが残念です。ひょっとして「正史」であろうとする制約の中で、あまりにも偉大な傑作「日出処の天子」の呪縛からは、とても逃れられなかったのではないでしょうか。その自覚(意識すると否に関わらず!)が朝日新聞での発言を呼んだのだと考えます。
あまりにも傑作でありすぎた先人の作品に対する「嫉妬」が、今回の騒動の根源なのでしょう。この事実には「日出処の天子」の隠された、かつ大いなるテーマが「厩戸王子」の「蘇我毛子」に対する愛情と嫉妬である事への因果を、感じてしまいます。
池田理代子は、漫画家としてだけでなく、多くの人生を生きています。現在は『声楽家』であり、ある時期は様々な「スキャンダルメーカー」としても名を馳せました。彼女の生き方には引き込まれることも多く、少なくとも「自分がやりたい事」とか「自分の感情」に真正面から向き合う姿勢は、とても魅力的です。
山岸涼子の作品を俯瞰する
ここで、改めて山岸涼子の作品群を俯瞰的に観てみましょう。彼女の作品は、多く分けて3つの流れがあります。その第一が、既に述べてきた「アラベスク」や、「日出処の天子」に代表される大きなドラマであり、第二が、恐怖や狂気を描ききる短編です。この第2の流れには、本当に傑作が多く存在し、人の中の、人と人との間の、ちょっとしたすれ違いや、裏腹の異形の空間への恐怖が凄い!
そして、第三の流れが、自らをデフォルメした登場人物を狂言回しにした、日常描写の流れです。前回紹介した大誤報事件に翻弄された数日間を描いた「M新聞始末記」が好例ですが・・・。こういった作品を通常に眺めると、上記の二つの流れに比して、描き込まれず、ベタ(黒塗りの部分)もなく、いかにも手抜きの主人公(本人)が淡々と過ごしています。
例え、とんでもない捏造事件に際してもこれは変わりませんでした。こんな風に、日常をシンプルに描ききる作品を、今後も味わってみたいものだと感じる今日この頃です。
「全ての創作は盗作である」あるいは、「マンガはあらゆる作品を貪り食う」
今回のまとめとして、最初の「ライオンキング盗作」の雑談にたちかえります。どちらの話題に通じるのは、創作という行為の重みと、それに対する尊敬の念の示し方かな~と感じています。「〇〇に対するオマージュです」とか「△△にインスパイアーされました」等という言葉で全てが許容されるとは考えられません。
しかし、そもそも、マンガというジャンルが、あらゆる表現行為から盗みまくっています。そういった貪欲さが実は、マンガ一般、少女漫画というジャンルの魅力なんです。
最後に語っておきたいのが、前回の『ライオンキング』オリジナル論争への手塚プロダクションの対応です。当時の松谷孝征社長は、94年に米メディアの取材に応じ、ディズニー作品と、手塚の「ジャングル大帝」は全く異なると断言した上で、
「89年に亡くなった手塚治虫はウォルト・ディズニーの大ファンだった。ディズニーアニメと自分の作品に類似点があれば、光栄に思っただろう」
と語りました。この発言を機に、かつての『盗作論争』は収束していきます。
まさに、日本的解決策で、誰も傷つけない。ネット上などでは、この対応を「神対応」と賞賛する声もありますが、私には、今一歩腑に落ちない点もあります。
それは、「創作という行為の重みと、それに対する尊敬の念の示し方が大切」という観点です。本件はその点でどうだったのでしょうか。権利の主張を取り下げる事が、美談となってしまっているのが過剰な忖度ではないのかと感じられるからです。
次回は・・・
この原稿をまとめている最終段階で「吾妻ひでお」氏の訃報に接してしまいました。少女漫画から青年マンガ、成年マンガなるエロ劇画まで、また、商業誌から同人誌まで、あるいは不条理コミックから、自身の『病気』をネタにした私小説的マンガ作品まで。あくまでも、ギャグ漫画家として作品を生み出してきた氏は、私にとっては、とても偉大な存在でした。生前、彼は、いたるところで、マンガを描くモチベーションとして「自分がカワイイと感じられる女の子が描きたいから・・・」と語っていました。次回は、日本文化の海外戦略上の最大の武器と化してしまった「カワイイ」をキーワードにして語りましょう!さて、大丈夫かな?
「吾妻ひでお」論にはしないよ~ 念のため。