本文へ移動

平野勇治のミニシアターの映写室から

名古屋シネマテーク 35年前の旅立ち②

2017年6月24日

400

オープン当時の「シネマテーク通信」。ラインナップには、アートアニメーション、ドキュメンタリー、特集上映などが並んでいて、当館の現在の路線とあまり変わっていない。誇らしいような、ちょっと気恥ずかしいような気分。


前回記事 名古屋シネマテーク 35年前の旅立ち①

(承前)前回は、名古屋シネマテーク設立に至る当時の状況について書いた。だが、映画館は「作りたい!」と思っても、そう簡単には出来ない。資金も必要だし、なによりも適当な場所がなかったら、夢は夢のままだ。我々の劇場は、なぜ今池という場所に誕生したのか?

ナゴヤシネアストでの自主上映時代、上映会が終るとほぼ必ず打ち上げをやっていた(毎日上映が続く映画館では、そうはいかない。自主上映時代の楽しい思い出)。打ち上げの場所は上映会場によって異なっていたが、ある時期からお店が決まってきた。今池の六文錢という居酒屋だ。今池は栄や名古屋駅に次ぐ繁華街で、多数の飲食店がひしめいていた。六文銭はそんな今池の中でもユニークなお店だった。料理も美味しいのだが、なによりも訪れる客に一癖あった。今池の隣駅に予備校の河合塾があり、その講師陣が常連客で、そこに書店経営者や、大学関係者などが加わり、毎夜談論風発の趣があった。そんな雰囲気とマスターの人柄に惹かれて、代表の倉本は個人的にも足繁く通っていたようだ。そこで倉本が、映画館を作る夢を語ったところ、マスターが「それなら、このビルの2階に空きがある。よかったら紹介するよ」と声をかけてくれたのだ。これが、夢が現実となっていく契機となる。

とはいえ物事はスムーズには進まない。偶然だが、ビルのオーナーは当時、名古屋近郊に複数の映画館を経営する映画人でもあった。だから埋もれた映画を上映したいという倉本の考えに理解は示してくれたが、映画興行がリスキーであることも体験上、とてもよく分かっていた。すでに映画は斜陽の時代。家賃の支払いが滞ることを危惧されるのも当然だった。話は頓挫しかけたが、そこは、六文錢のマスターの後ろ盾もあり、なんとか首を縦に振ってもらった。

しかし、肝心の映画館を作る資金がない。後に聞いた話では、その頃、倉本は結婚資金として貯金していたお金を上映会の赤字補填に使い、恋人に去られていたという。それだけ映画上映に入れ込んでいた倉本には申し訳なくもあり、讃えたくもあるのだが、とにもかくにもお金は無い。無ければ集めるしかないと、一口10万円で広く資金の募集を呼びかけた。これまでの上映会に通ってくれていた映画ファンや、今池に面白いスペースが出来ることを願ってくれた先述の六文錢人脈などから、最終的に一千万円を超える金額が集まり、どうにかオープンに漕ぎ着けたのだ。

当時の私は、お金は無いが、時間だけはある学生だったので、日々、工事中の劇場に通い、大工さんの指示で簡単な仕事を楽しく手伝っていた(防音材を床に埋め込む作業だけは、後から肌が痛痒くなって参ったけれど)。倉本の苦労も本当のところはよく分かっていなかったと思う。だが、六文錢のマスターをはじめとする多数の協力者の方々には、今も深く感謝している。皆さんが倉本や我々スタッフと同じ夢を見て、それを現実にしようと支援してくれなければシネマテークは出来ていなかった。

あれから35年。皆さんの期待に応えられているかは分からないけれど、とにかく、まだ、まだ、シネマテークは続いていきます。

多くの映画人を招いてきたが、一番最初にシネマテークでトークをして頂いたのは、『薔薇の葬列』で知られる松本俊夫監督。映画界きっての論客だった。さる4月12日に逝去。ご冥福をお祈りします。


おすすめ情報