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水野誠志朗の尾張時代の信長をめぐる

尾張の新たな首都小牧、誰も見たことのない石垣の城「小牧山城」その2

2014年11月15日

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石垣の復元模型(小牧市教育委員会提供)


1562年(永禄5年)美濃との間で停戦した信長は考えました。

「そう簡単に美濃は落ちない。犬山もまた同様。となればまず尾張で自分の立ち位置を再検討すべきではないか。」

当時、尾張の有力者たちは、まだ完全に信長に従っているわけではありませんでした。尾張の主として自らの地位を確立するにはどうすればいいか。

「そうだ、主たる自分を象徴する城を作り、その下に産業を活性化させた理想の町を作ろう。それによって国内へも国外へも、俺の力を見せつけてやろう。」

数え歳30歳の信長はそう思いついたのではないでしょうか。

それまで居城としていた清須は、守護の斯波氏の居館を中心とした古くからの城と町であり、このころまでに守護の斯波義銀を国外へ追放してしまったと思われる信長にとって、あまり気分のいいものではなかったはずです。

また清須は平地にあるため守りに弱く、洪水もよくあったようです。何より戦国武将にとって重要とされる「権威を象徴する高い山城」ではありません。当時の権力者は山城を作りましたが、信長の弾正忠家が支配した尾張下四郡には適当な山がありませんでした。

出土した石垣(小牧市教育委員会提供)


このころ信長は新たに尾張上四郡を手に入れました。そこには山があります。そこでまず清洲の北東18キロの二ノ宮山(現在の犬山市本宮山・標高292m)を候補にあげて、城を作り移転することを発表。家臣の屋敷の位置まで指示しました。

この山の西側には現在も尾張二の宮である大縣神社(犬山市宮山3)があります。さて困ったのは家臣たちで、住み慣れた清須を離れ、不便な山の中は嫌だと不満を持ちました。すると信長は、五条川でつながっていて清須から物資の移動がしやすい小牧山に変更すると発表。清洲から10キロの距離です。皆はそこなら、と喜んで引っ越しに応じました。信長は家臣らを誘導するために一芝居打ったようです。

小牧山は標高85.9m、比高(麓からの高さ)約70m、面積約21haで、一見では濃尾平野にぽつんと立っているように見えますが、実際は洪積台地上にあり、西側の巾下川あたりは一段下がっているのが今もわかります。

信長はこの山とその南の台地上に全く新しい城と街を作るという、一大都市計画を画策したのでした。そして出来上がった城と城下町は、この後にご紹介するように、実際にとんでもないものだったのです。

現地に立つガイド看板


ところがその小牧山城は、案外早く美濃に勝てたため、1563年(永禄6年)からわずか4年ほどしか使われませんでした。信長と家臣団はより京都に近い岐阜へ移転してしまい、小牧山城と城下は急速に廃れてしまいます。

その後1584年の小牧・長久手の戦いでは、徳川家康が本陣として使うことにして、大きく改修を加えています。江戸時代に入ると神君家康ゆかりの城趾として尾張藩により入山禁止となり、明治以降も尾張徳川家の保護があったため、人の手が入ることなく戦国時代のまま土に埋もれてしまっていました。

今は頂上にお城のような建物(小牧市歴史館)が建っていますが、それ以外は今もほぼ昔のまま残っている貴重な城趾です。そこで、小牧市教育委員会は昭和60年代から発掘調査を続けてきましたが、その結果によって、小牧山城の実像がどんどん明らかになってきているのです。

まずなんといっても驚きだったのは、石垣です。山頂の一部に石垣らしきものが露出していましたが、それが信長のものか、家康のものかはわかりませんでした。そこで平成10年以降発掘調査が続けられてきましたが、平成22年度の調査で積もった土を取りのけたところ、建築当時のままの石垣が出土し、二層の巨大な石垣が山頂をぐるりと取り巻いていることがわかったのです。

家康は急ごしらえの砦として利用したので、大規模な石垣工事の時間はなく、そのことからこの石垣は信長のものと結論づけられました。

発掘によって出てきた石垣は、上段が約2.5~3.8m、下段が約1.5mの二段に積まれ、あいだの部分には玉砂利が敷かれて幅2mほどの通路となっていたようです。まだこのころは高石垣を積む技術がなかったため、二段にして対応したようですが、それでも下から眺めれば一段の高石垣のように見えるという視覚効果をねらって作られていました。

上段の石は1つ2トンもあるチャートという種類の巨石で、これを小牧山の裾野で採石して運び上げ、積んだのです。また山頂部にあった自然の石も石垣の一部として利用していました。

出土した佐久間石。縦に薄く佐久マという文字が見える


別にひときわ大きな花崗岩もあり、これは正門と思われるところに置かれています。この石は小牧山城では採れず3キロ北東の岩崎山から切りだされたもののようです。石垣は単に積んであるだけでなく、石が石垣の後ろの部分で重さを支えており、またぐり石という裏込石を詰めて排水や力の分散を計算してあり、高度な当時最先端の技術を使ったものだったのです。

また発掘で出てきた石には佐久間と墨で書かれたものもありました。これは重臣であった佐久間信盛が石垣を積んだという証しなのかもしれません。しかしいったいどのようにしてこれらを山頂まで上げたのでしょうか。

瀬戸市の定光寺には、小牧山城のことを火車輪城と書いた文書が残っています。やや赤みを帯びたチャートでできた石垣がぐるりと山頂を取り巻いている様は、まさに火の車輪のように見えたのではないでしょうか。

ちなみにこの城の出来ていく様子を北側の小口城から見ていた敵方の中島豊後守は、とてもかなわないと、城を捨て撤退してしまいました。それほど当時としては驚異的な建造物が作られたということでしょう。

残念ながら保存のため石垣はまた埋め戻されていますが、小牧山城に登ればガイド看板でわかりやすく説明されています。小牧山城は歩きで簡単に登れますのでぜひ一度お運びください。この話は次回へ続きます。

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